2011年8月3日水曜日

「どこのまちのひとですか。」

天井は高く
わずかの足音も
広いフロアに響いていた
見上げると壁には12面大型モニター画面が
黒光りし僕の影もはっきり映っている


モノクロのモザイク模様が
無音で上ってくる
何歩かさがり全体をながめると
それぞれ一片が古めの
顔写真が後から後からせり上がっていた

振り返ると壁も床も大理石造りで
地上に開いたアトリウムの
吹き抜けに冬の太陽の白い光が
柔らかく降り注いでいた







いつ終わるともなく
その顔写真は流れ続けている
傍らのステンレスデスクには
タッチパネルが内蔵されて

『原爆死没者お名前検索』とあった


「どこのまちのひとですかいの」
東京からきたんです
どうしてもこなきゃいけないと思って

「感心ですね」
「六日はこの辺りにはいなかったんです
丁度海軍工廠に呼ばれて
その日にみんなで歩いて戻ったら
母親と妹はいて
あとからわかったけれど
姉は中学校でなくなってました。
町中火の海で跡形もなく
人が沢山この川の中に入って
みんな焼けただれてあついあつい言うて
六日七日過ぎて
しばらくして妹がなくなって
それから母親は
妹が不憫で不憫で
あの子をあのときうちに入りって
言ってあげてればと60年間毎日毎日嘆いて
この前なくなりました。」

気がつくと
あたりは1945年8月6日の広島に
変わっていた。
空は曇り視界が途切れるまで
火の手や煙が上がっていた
無数の人々が両手をそろえて幽霊のように歩いて
公園の川の両岸に
叫びともうめきともつかぬ多くの人の声が
重なり合ってどす黒くとぐろを
巻いて僕の脳内に流れこんできていた
折り重なるようにして赤黒くなった人体の山は
どんどん増えている
煉獄。
あたりは燃えさかり体も焼けそうに熱い
貿易振興会館も炎上し既に
丸いドームがむき出しになり
金網の大きな帽子は真っ赤に焼け
ぐにゃりと曲がっていた
広島にやってきた
取ってつけたような僕の動機などは
いつのにか吹き飛びただ事実が歴然とその場に現れた



「戦争はいけん、戦争はいけん。」



とワタナベさんは言った
そして
初対面の僕に丁寧に頭を下げ
ゆっくり歩いて去っていった







「次は、比治山公園入り口、
比治山公園入り口。」

車掌の声が聞こえ
線路の継ぎ目の振動が
緑色の長い乗客椅子から
腰に響いていたのが止んだ
キーッガタン。
市電に合わせ車内の子供も
おばあさんも安いスーツのオヤジも
エビちゃん風の彼女も一緒に揺れた
小高い緑の山の前で一両目のドアが開き
敷石で囲まれた低いホームに降りる
歩行者信号が青に変わり
道路を横切り上の公園に続く
ゆるやかに曲がる坂道を
芳香が漂う中てくてく上る

小さなゲートをまたいで敷地内にはいる
現代美術館という建物標示を
右に曲がると白く大きなボードに
こんな文字が書かれていた








WAR IS OVER, IF YOU WANT IT.











ボードのメッセージは
JOHN LENNONのものだった。



Memory  flux.







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