2013年2月10日日曜日

「話すことがたくさんある時は、少しずつ話すのが一番いいんだ。」


「ダンス・ダンス・ダンス」
を読むいつものように
また自分自身で何か書いている気分になり
実際に書き始める
なんだ書けそうじゃないか
ただ食事をセックスを
服装をジャズを
クラッシックを
ポピュラーミュージックを
具体的に細かく表して行けばいい
趣味のいいやつをそれも飛び切りのを。

パスタは
鍋にひとつかみ塩を入れ
片手でぐるりと回して入れる
沸騰させしばらくして麺を一本食べる
ちょうど少し芯が残っていたら
アルデンテ。
ザルにとったちょうどそのとき
ついこないだ買い替えた
スマートフォンへメールがきた。

こんな風だが、

やれやれなるほど
勢いづいて書いてはみたものの
彼の文章には
具体的な描写の中に巧みに織り込まれ
密かに光りを放つ彼の主張 考え
多くの読者に共感を呼び起こす感覚
自分の事を書いてるのかと思わせる
その無意識との深き同調。
この僕がマネできるワケはない

「話すことがたくさんある時は、少しずつ話すのが一番いいんだ。そう思う。」

「おやすみなさい。」

ダンス・ダンス・ダンス。
僕は何度も読んでいる
読み返すたびにこんな話だったか?
しかし映画ならカット割はこんな風だ
小説の主人公の『僕』が
わからない何かを追いかけ始める
スタートはたいていおいしそうな
朝食 昼メシ 晩飯
ありあわせの材料で作ってしまう

サツマイモ入りお味噌汁
じゃこに大根下ろし
目玉焼きに醤油
湯気が立ち朝日の差し込む
食卓を続けるような
退屈な日々を過ごしてつまらなくなる時
驚きの展開を見せるんだ。

登場人物ですごい美女の何人かが
特徴のある考え方を切り出し
ありそうなシチュエーションで
あり得ない事態が動きはじめる


確かに
退屈な具体的描写とその並びは大切で
そこには時間的停滞と場面的条件設定が
恐ろしくつながっていて
僕らの脳内無意識に入り込んで来る

登場人物の彼らは皆
どこかある部分が極端に特徴的だが
例外なく発言は的確でムダがなく
引き締まってテンポがいい。
だらしないヤツはあまり出ない
行動や言動はハードボイルドでも
それと気づかせない魅力を持っている

いつもこの僕を『僕』だと思わせる
だが『僕』は名前は変わっても
村上春樹の小説では
全員同一人物に読めてしまう。

『僕』で書かれている
「ダンス・ダンス・ダンス」は
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の深い闇で繋がり
「アフターダーク」のテレビのブラウン管
「海辺のカフカ」の章と章の間の隙間は
全部つながっている
そしてかつては
降り立つ事のなかった奥深い底に
照らし出される事のなかった
この僕の脳の奥深い底に

つながっている
つながっている

全部つながっている
全部つながっている

ダンス・ダンス・ダンス。






2013年2月2日土曜日

「くっそー、負けたー。」



煙は高い煙突から
ゆっくりと立ち上り
薄暗い午後の空に溶け込み
その色は雲と区別はつかなかった
焼却場を囲む雑木林や
稲の株が残った田や
家庭菜園でこまかく分けられた
畑などが延々に続く風景は
トーンがおしなべて
冬の曇り空のその陰を
感じさせていた
iTunestoreから中島美嘉の
『雪の華』をダウンロードして
リピートする

…何かをしたいと思うことが愛ということ…。

昨年一昨年の
冬とは違い
景色は映像のように
その曲に織り重なっていく
なぜだろう車両点検で
終点変更を告げる
車掌のアナウンスも
急かされずうるさくもなく
それらの音の各々で
コードが進行していく



式典を行うキューブ型ビルの
畳敷き20帖ほどの親族控室で
地域の幹線道路に面した
襖を開ける
雨粒の筋が流れ落ち
枝のような模様がうつる
大きなガラス窓越しに外を見る
部屋の中では
高校2年の甥と中学1年の姪が
ゲームで勝負をして
「くっそー、負けたー。」

薄曇りの空から降る雨は
見えるだけで
エアコンでほてった耳には
その音は聞こえなかった
けれども

雨が心に音を立てていた

涙はどういうわけか
昨日までに枯れ果て
お別れの淋しさはやはり
遠く離れた地で
母親を思ったその時に
何度も何度も数えきれず
こみ上げていたのだった


「私はここでええでね。」

「え、あー、俺もこういう

ところでお通夜に出た事あるよ、

しかしまたそんな自分の葬式の話

しを…。」

「私が先と思っとったのに

わからんねー、どうなるか。」

「……。」

雨雲がフロントガラスの遠い先にあり
交差点で信号待ちにそんな話が出たのは
数年前の梅雨が明けた7月の
終わりの頃だった
助手席の母親の頭越しにみた
今その式場の3階に僕はいた。

そして
沈黙しもう二度とその
口を開き話さなくなった母も
その部屋で顔に布をかぶされ
無言のまま横たわっていた
姪っ子は遺体というものは
やはり
こわく感じているらしかった

甥っ子は
僕のメールには返信してはいず
その話さえもしなかった
これまでおじさんらしいという
ことなど僕には皆目わからず
できてもいないが
今回はどうしてか伝えたくなり
東京から名古屋への
のぞみの窓側座席でメールを
書き綴ったのだった




大変残念で悲しく
これからは寂しくなります。

あなたとは
孫とおばあちゃんの関わりですが
なにがしかの
思い出などを偲んであげて
いただきたく思います。


そんなことがらで
ひとつお伝えしたいことがあります。

僕は母に
約40年面倒をみてもらいました。

自分の子供ではない二人の
少年たちがいる家へ入ったことを
なぜ決断したのか40年後の
今年になってやっと知りました。

39年前の夏に僕らは初めて
会いました。
彼女は42歳僕は12歳
あなたの父は14歳
僕らの父親の同僚で岐阜在住の
人のご紹介で
僕の家に訪問し
日曜日の夕食を作ってくれました

当時日曜日は家では
トンカツと決められていて
それを作ってご馳走して
一生懸命作ってくれたのでした

子育ての経験がない人が
二人の難しい年頃の男子のいる
家庭にはいることは
そう簡単に決められる事ではない
と思います。

実際
僕自身が子供のいる人と
一緒に生活を共にすることを
考える機会がありましたが
なかなかどうして
他人の子供の親代りになる事など
決められるものではありません。

僕は7,8年前
母 に宛てた手紙に
当時の僕らは
あなたに救われていたことに
はっと気づき
あなたには本当に心から
感謝しているといった
内容を書き送りました。
今年の夏に電話で
彼女がその手紙を
見つけた話をした
その時思わずなぜ
当時僕らの母親になると決めたかを
聞いたところ

当時彼女は
岐阜市内に親御さんと兄夫婦で
同居していましたが
兄夫婦に男子二人兄弟がいて
とても可愛がっていたらしいです。

母は
僕ら兄弟ふたりとその甥っ子
ふたりが重なって見え
あの子たちが母親をなくしたら
どうしようと思ったら
たまらなくなって
そう感じたことがきっかけで
僕らの面倒をみることを
決めたと聞きました。

僕自身には
できそうもないことを
そんな心づかいで
決めた母 は40年変わらず
僕らの面倒をみてくれました

電話でしたが
あなたのおばあちゃんには
感謝してますともう一度
その時直接話しました。
いつもの事ですが受話器の向こうで
彼女は涙声に変わり
僕も胸が一杯になりました。

本人同士しか
なかなかわかりにくい
微妙な話とは思いますが
記憶にとどめてもらい
ああそうだったんだと
感じてくれればと
思います。

高校3年を目前にして
なかなか落ち着かないことも
あるかもしれませんが
偲んであげてください。

長いですが
あなたの妹にも
読ませてあげてください。

では後ほどよろしく



このメールを宛てた
二人は本当に仲良く
テレビゲームで勝負をしていた
通夜の前の晩だが
なんだか和んだ雰囲気が
その親族控室には漂っていた
悲しみに沈んでいない僕自身にも
なぜか好感がもてた

魔除けの剃刀がある祭壇には
常夜ロウソクの炎が
数十秒間震えて灯り

その向こうで
顔は白い布で隠れてはいたが
彼女は二人の孫がたわむれるのを
見守り愛しむように
ほほえみながらそのまま
横になっていたに違いなかった

年の瀬のにさしかかり
雨は夜更けを過ぎても
雪へと変わらず
寒い夜空では
薄く広い雲がゆっくりと
消え去ろうとしていたが

今夜の月の陰が現れるか
どうかもまた
いつなのかも
わからなかった

暦の上では彼女が
この世を去った昨日は
満月だった
そうとは知りもせず
おめでたいことに僕は
満ち足りた月の
かすかな光を全身で
浴びていただけだった
そのシンドウを
だた心地よく
本当にただ
感じていただけだった